09│2022年02月27日 降誕節10 奇跡を行うキリスト

週 句 わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。
    聖書 マルコ11章17節
説 教 「ものを言わせない霊、出て行け!」 高橋周也
    聖書 マルコ9章14~29

「今日神の声を聞くならば」
世の中や私たちの人生には、人間の知恵や洞察だけでは太刀打ちできない課題があります。弟子たちと律法学者が大勢の群衆に取り囲まれて議論していた話のテーマは、霊に取りつかれたという子どものことでした。弟子たちは「悪霊を追い出す権能」を与えられた(3章14~15節)はずだったのに、その子の抱える問題を解決できなかったのでした。なぜならその種のものは「祈りによらなければ決して追い出すことはできない」ものだったからです。
 ここでイエス様の言動に「祈り」とは何かということが凝縮されています。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」―イエス様の祈りとは、この子どもの父親を信仰に目覚めさせ、霊を??りつけ、この子どもの手を取って起こすことでした。この子どもは、イエス様の祈りによって立ち上がることができたのです。
さて当時のユダヤ教において、病からの立ち上がり=復活は、古い生命の危機を新しい生命によって克服することだと捉えられていました。復活の主に手を取って起こしていただくことによって、人は新しい生命を得て生きるのです。
 今日、私たちに向かって、釘痕のついた主の手が差し出されています。御言葉をきくというのはそういうことです。聖書のいう信仰とは、差し出された主の手を握り返すことです。私たちを受け入れてくださる主との関係性に飛び込むこととも言えます。そういう意味で単に「信じる」とか「願う」ということとは異なります。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
祈る者の姿勢は、神様の時をじっと待つだけではありません。こちらの方から神様に呼びかけ応答を乞うのです。そして、「霊を叱る」ということに象徴されているように、その課題に向き合い関わり続け、どんなに多くの者が傍観していても祈っている者だけは、仲間として寄り添い行動するのです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4,12)