14│2021年03月28日 復活前1 十字架への道

週    句

人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3:14b、15
説  教  「交わりを生きる」 

十字架への道
哀歌5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩編118:19~29。
イエスがエルサレムに入られる時、人々は熱狂的に迎え入れます。イエスを担ぎ上げれば長いトンネルからやっと抜け出せる。その喜びが人々を突き動かしていました。ところが、イエスはその期待になかなか応えてくれません。一気に膨張した熱情は一瞬にして醒め、期待は罵倒に一変します。
十字架につけられたイエスを見た人々は、手のひらを返したようにイエスを罵ります(マタイ27:39~40)。もちろん、これまで苦い思いをしてきた祭司長や律法学者もイエスを侮辱します(マタイ27:41)。そればかりではありません。同じ立場に置かれているはずの、一緒に十字架につけられている強盗までイエスを罵るのです(マタイ27:44)。
ところが、十字架上のイエスは人々の言葉に一切反応されません。じっと一人で罵声の嵐に耐えておられます。それは何時間も続きます。そしておもむろに「イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』」(マタイ27:46)。詩編22編の言葉でした。確かにここだけを切り取れば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、この詩は神の助けを求める詩であり、神の助けを喜ぶ詩でもあります。しかし、それを聞く人々には絶望の言葉としか聞こえませんでした。嘆きの詩としてしか受け取れませんでした。人間を取り巻く現実はとても厳しく、救いを実感できないからです。勝手な期待を裏切られたと思っていたからです。
彼らはまだ気づいていません。この十字架こそが救いであることを(1コリント1:18)。人間の目には愚かとしか思えないイエスこそ、「隅の親石」(詩編118:22)であり、救いそのものであることを。人間の思いとは関係なく、十字架は立っています。神は人間の思いとは逆転して、すでに人々を救いへと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より