週 句
人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書20:28
人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書20:28
説 教 「最高の道」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:31~13:13
十字架の勝利
創世25:29~34、ローマ8:1~11、マタイ20:20~28、詩編118:1~9。
「ゼベダイの息子たちの母」が、息子(ヤコブとヨハネ)を引き連れてイエスの前にやってきます。イエスは大切な場面、いつもペトロとヨハネ、ヤコブを伴われました。母親もそのことをわかっていたのでしょう。「二人の息子を特別な立場として扱ってほしい」と願い出ます(マタイ20:21)。親心はわからないでもないですが、もちろんこれは神の御心からかけ離れています。この話を聞いて腹を立てた他の10人の弟子たちも似たり寄ったりです。自分自身の欲望、「肉の欲」に囚われています。空腹を満たすために長子の特権を譲ってしまったエサウと大差ありません(創世25:33)。
神は自分で自分を律することができない弱い人間のために、律法を与えられました。しかし、人間の欲はとどまるところを知りません。神の子を前にしても、人間の序列に囚われています。この強力な、律法では抑えきることのできなかった肉の欲から解放するために、神はイエスを地上に与えられました。人間の価値観を根底から変えるために。
人間や君侯に頼る「人間の序列」を覆して、主のみを避けどころとする「神の序列」へと改めさせるために(詩編118:8~9)。それを表すのが十字架です。十字架は人間の弱さの象徴でしたが、復活を通して神の勝利の象徴へと逆転します。神は十字架と共に肉の欲を退け、新たな命へと招かれます(ローマ8:3)。イエスの十字架への道行きは苦難の道行きであると同時に、私たちを解放する喜びの道行きでもあるのです。
神の序列に生きられたイエスは「仕えられるためではなく仕えるために」地上に来られました(マタイ20:28)。他者からの賞賛を得るためではなく、他者のために何ができるか考え、行うために歩まれました。十字架によって人間の序列から解放された私たちは、このイエスと同じように生きるようにと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:31~13:13
十字架の勝利
創世25:29~34、ローマ8:1~11、マタイ20:20~28、詩編118:1~9。
「ゼベダイの息子たちの母」が、息子(ヤコブとヨハネ)を引き連れてイエスの前にやってきます。イエスは大切な場面、いつもペトロとヨハネ、ヤコブを伴われました。母親もそのことをわかっていたのでしょう。「二人の息子を特別な立場として扱ってほしい」と願い出ます(マタイ20:21)。親心はわからないでもないですが、もちろんこれは神の御心からかけ離れています。この話を聞いて腹を立てた他の10人の弟子たちも似たり寄ったりです。自分自身の欲望、「肉の欲」に囚われています。空腹を満たすために長子の特権を譲ってしまったエサウと大差ありません(創世25:33)。
神は自分で自分を律することができない弱い人間のために、律法を与えられました。しかし、人間の欲はとどまるところを知りません。神の子を前にしても、人間の序列に囚われています。この強力な、律法では抑えきることのできなかった肉の欲から解放するために、神はイエスを地上に与えられました。人間の価値観を根底から変えるために。
人間や君侯に頼る「人間の序列」を覆して、主のみを避けどころとする「神の序列」へと改めさせるために(詩編118:8~9)。それを表すのが十字架です。十字架は人間の弱さの象徴でしたが、復活を通して神の勝利の象徴へと逆転します。神は十字架と共に肉の欲を退け、新たな命へと招かれます(ローマ8:3)。イエスの十字架への道行きは苦難の道行きであると同時に、私たちを解放する喜びの道行きでもあるのです。
神の序列に生きられたイエスは「仕えられるためではなく仕えるために」地上に来られました(マタイ20:28)。他者からの賞賛を得るためではなく、他者のために何ができるか考え、行うために歩まれました。十字架によって人間の序列から解放された私たちは、このイエスと同じように生きるようにと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より