12│2021年03月14日 復活前3 主の変容

週    句

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12:24
説  教  「キリストの体としての教会」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:12~26

主の変容
出エジ24:3~11、Ⅱペト1:16~19、マタ17:1~13、詩編145:1~13。

ペトロを叱責し、再び招かれてから6日後、イエスはペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られます(マタイ17:1)。すると、イエスの姿が3人の目の前で変わります。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:2)。これは神の子としてのしるし、神であることのしるしです。
そもそも、高い山の上は神の領域です。神に選ばれた者しか立ち入ることを許されていませんでした(出エジプト24:11)。しかし、神が選ばれれば、神の威光を垣間見ることができる場所でもありました(出エジプト24:11)。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が、イエスが神の子であるしるしを、その栄光を目撃することが許されたのは、イエスによって招かれたからです。もちろんそれは、彼らが特別に優秀だったからではありません。ところが、「イエスに選ばれた」ことを内心嬉しく思っていたペトロは、白く輝くイエスとモーセ、エリヤの姿を見て舞い上がります。「仮小屋を三つ建てましょう」(マタイ17:4)と、イエスの思いもそっちのけで独りよがりに喜びを表そうとします。結果は言わずもがな、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)と、本質に立ち帰らされるのです。
ペトロたちが招かれたのは、イエスが神の子であることを再確認するため、そして、神の威光を証しするためです。立ち帰ったペトロはその生涯をイエスの栄光を、神の威光を語り続けるために献げます(2ペテロ1:16、詩編145:5)。ペトロは自分の後に続く者が救いの御業を語り継ぎ、喜び歌うことを期待して語り続けました(詩編145:7)。
私たちもペトロに期待されている一人です。この地上に主の栄光を証しするために招かれた一人なのです。
「礼拝と音楽」より