11│2021年03月07日 復活前4 受難の予告

週    句

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書9:62
説  教  「主の死を告げ知らせる」 

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:17~26

受難の予告
ヨブ1:1~12、Ⅰペト4:12~19、マタ16:12~28、詩編86:5~10。
イエスと共に歩めば神の国を実現できる。弟子たちは喜びと安心の中にありました。ところが、そのイエスが、「エルサレムに行って必ず苦しみを受ける」と予告されます(マタイ16:21)。弟子たちはやっと落ち着いたばかりなのにと思ったことでしょう。また、そんなことがあってはならないと不安に駆られたのかもしれません。ペトロがイエスを諫め始めます(マタイ16:22)。
この少し前にはイエスをメシアだと告白しほめられたペトロです(マタイ16:17)。「ペトロ=岩」という名前を与えられ、信仰の確かさを認められました(マタイ16:18)。さらに天国の鍵まで授かって、地上での権限まで与えられました。にもかかわらず、ペトロはイエスの真意を理解していません。自分に都合よく受け止めていました。だから、イエスはペトロを叱責されるのです。
もちろん、ペトロが無学だったから理解できなかったのではありません。たとえ正しい人であったとしても、絶えず誘惑と隣り合わせなのです(ヨブ1:8)。そして、自分中心の欲望から脱するのは容易ではありません。そこで、自分にとって不都合な真実であったとしても、受け止め、応えていくことが求められています。厳しい時、苦しい時こそ神を思い、神に従う。「岩のような信仰」とは、自分で自分を堅くするのではなく、ただ神を神として賛美し、ひたすら神により頼む生き方です(詩編96:10)。神の思いに応え、「善い行いをし続け」る生き方です(1ペテロ4:19)。
だから、イエスはペテロを叱責された後で、「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と呼びかけられます(マタイ16:24)。何度も躓きながら必死にイエスに食らいついていくペトロの姿こそ、私たちが追うべき先達の背中なのです。
「礼拝と音楽」より