16│2018年04月15日 復活3 まことの羊飼い

週    句

わたしは良い羊飼い。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書 10:27、28
説  教    「わたしは門である」:梅田 環

まことの羊飼い
エゼ34:7~15、Ⅰペト5:1~11、ヨハ10:7~18、詩23:1~6。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
ヨハネによる福音書 10:9

 わたしたちは、今を、生きている。だから、いのちを持っていると思っている。しかし、イエスは、今生きていることと、いのちがあることとがイコールと考えてはいない。むしろ、生きていながら、いのちを失っていると、指摘する。
 イエスは、いのちを失い、迷い、生きる気力を失った羊たちを探し、招かれる。しかし、それは特定の羊だけではない。イエスは語られる。「囲いに入っていない羊をも見つけて、導かなければならない」。
 「囲いに入っていない羊」とは、どのような人のことを指しているのだろうか。わたしたちは、様々な囲いの中で生きている。家庭、学校、教会、地域、国、など。そこには、ある一定の基準があり、それを満たさなければ囲いの中に居続けることはできない。追放されてしまうのだ。そして、囲いから出されてしまうと、不適合者というレッテルが貼られる。追い出された者は、空気が読めない人、わがままな人、誘惑に負けた弱い人、罪人、などのイメージがつきまとい、たとえ囲いの外でどんな目に遭おうとも「自業自得だ」と冷たい白い目で見られてしまう。一度、囲いから出されてしまうと、再び入ることは困難になる。外に出された羊、出ざるを得なかった羊に、イエスは目を注がれたのだ。
 一方、囲いの中も安心できる場所ではない。中では支配者たちが権力を振るい、統制しようとし、そこから外れる者を許さない。人々は、いのちを失っている状態である。イエスは両者を招き、そして、神の愛という囲いの中でいのちを得させられる。