04│2022年01月23日 降誕節5 宣教の開始

週 句 そして、パンの屑(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠(かご)にいっぱいになった。
    聖書 マルコによる福音書6章43節
説 教 「イエスの家族」 高橋周也 牧師
    聖書 マルコ3章31~35節

「神の御心を行う人」
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコによる福音書3章33~35節)
 本日の聖書箇所は直前の20~30節と直接つながっており、そこにはイエス様が食事をする暇もないほど、家で群衆のために力を尽くしておられたことが記されています。そのようすをを見て、イエス様の身内の者たちは大変心配しました。イエス様はある人々からは、「あの男は気が変になっている(=我を忘れている)」と言われていたのでした。そこで「外」から「人をやって」イエスを呼び、そこで取り押さえて奇行を止めるよう諫めようとしていた母や兄弟たちのことを知り、主は冒頭のようにおっしゃいました。
「神の御心を行う人」とは、いったいどんな人のことを指しているのでしょうか。ここに集まっていた「大勢の人々」は、その前後関係から、単に数がたくさんであっただけではなく、社会から疎外され難しい立場に置かれたような人々、多種多様な悩みや問題を抱えた人々であったことが窺えます。主が食事をする暇もないことに気を遣うわけでもなく、ただ周りに座って助けを待っていた人たちを見回して、主はこの人たちこそ自分の真の家族であると言い表したのです。人々は衝撃をもってこの言葉を聞いたことでしょう。この人たちは上述の理由から、おそらく他の人々からは兄弟・姉妹とか母とは呼ばれるはずのない人たち、そういう立場に追い込まれた者たちであったと考えられます。主はそういう人たちを「群衆」としてではなく、「家族」として扱われたばかりか、「主の御心を行う人」と呼んだのです。
「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」(詩編84編5節)
「私は主の御心によって生かされているのだ」と知っている者たちが、神の似姿として世界のなかで主を証しするのです。