49│2021年12月12日 待降節3 先駆者

週句 彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳(いげん)をもって。彼らは安らかに住まう。
聖書 ミカ書5章3節
説 教  「あなたを慰めたくて、何と呼びかけたらいいのか」高橋牧師
聖書    イザヤ40:1~11

「あなたを慰めたくて、何と呼びかけたらいいのか」
本日の箇所は直接的には紀元前6世紀の50年にわたるバビロン捕囚末期にあるイスラエルの民へ向けて語られたメッセージですが、後半は新約聖書においてイエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネの場面に引用され、全ての時代の異邦人を含めた神の民への言葉として読まれるようになりました。教会はその言葉を2000年間読み語り継いできたわけです。私たちも第3アドヴェントにあたりこの言葉にふれたいと思います。改めてここに主なる神様の私たちに対するお心が凝縮されているように思いました。「慰めよ、慰めよ、私の民を」(40章1節/協会共同訳:原文通りの語順)
 実は研究によってイザヤ書はこの40章以降、39章までとは別の人物「第二イザヤ」によって書かれたことがはっきりしています(第三イザヤも含めて、イザヤ書が最後まで書きあがるのに200年!)。つまり、ある預言者の言葉の冒頭が、「慰めよ」という神様のセリフなのです。このことからだけでも、神様がどれだけ私たち人間に対して大きく深い関心を寄せてくださっていることかを示されます。
しかし、そこであまりにも悲惨な現実を前にして戸惑いが起こります。「何と呼びかけたらよいのか、と。」(6節)
 私たちは苦しいところを通される時、あるいはそういう場面に出くわしたとき、まずは立ち尽くすしかない弱い存在です。そこで私たちの神様は、そんな人間の有様を一緒に苦しみ泣いてくださいます。そんな神様の思いがあふれてこの地上に来られた救い主イエス様は、生涯を通してまさにそのように人々に向き合い語り続けてくださいました。その一つひとつの出会いに、普通であれば戸惑うような人間の現実があります。しかし主はお言葉をくださいます。そしてその言葉は、「とこしえに立つ」(8節)のです。
 だからこそ、私たちはどんな時代にも、前を向いて進んでいくことができるのです。神様の言葉は、人が声をかけるのも憚られるような現実にも、その慰めのために語り続けられます。「見よ、あなたたちの神」(9-10節)と。