15│2019年04月07日 復活前2 十字架の勝利

週    句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
説  教   「隅の親石となった」:梅田 環

十字架の勝利
哀1:1~14、ヘブ5:1~10、ルカ20:2~19、詩54:3~9。

こう書いてあるのは何の意味か。/『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
ルカによる福音書 20:17

 イスラエルの歴史の中で、人々は、神の愛は常に自分たちに対してのみ、優先的に、また、限定的に与えられるものである、と理解して来ました。その理解は、時に、自分たちが神の救いの行使にかかわる特権を、神から得ている者であるかのような幻想を抱かせます。
 葡萄園を借りて管理している農夫たちのたとえを通して明らかにされるのは、そのような人間によって限定される救いの理解は、神が起こす十字架と復活の出来事によってひっくり返されるということです。たとえ話しの中で、農夫たちは借りていたぶどう園をいつの間にか自分たちの所有物のように思ってしまい、不在地主である所有者から収穫物を要求されることは、不当な請求であるかのように受け取られます。その要求を拒むことは、この話しを聞いていた多くの小作農民を含む「民衆」には当然の権利のように受け取られたのかもしれません。
 しかし、物語の中では、この拒絶は、暴力行為に発展し、所有者から「愛する息子」を使者として派遣された農夫たちは、ついに、その息子を殺してしまいます。所有者は、この農夫たちから葡萄園を取り上げ、他の人に与えるだろう、とたとえ話は結ばれます。
 借り受けたぶどう園を自分のものにしてしまった人間が放り出した「隅の親石」は以外にも強い力を持ちます。その影響力は、「石」に出会うものの心を打ち砕き、高慢を押しつぶします。イエスはここで宣言します。捨てられる石のように、また、ぶどう園の外に放り出される息子のように、自分は投げ捨てられる。それゆえ、今後、出会う者に圧倒的な影響を与えるものになるのだ、と。