週 句
人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
説 教 「この〈杯〉を飲むことができるか?」 :梅田 環
十字架の勝利
創25:29~34、ロマ8:1~11、マタ20:20~28、詩118:1~9。
……このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。二人が「できます」というと、……
マタイによる福音書 20:22b
イエスさまはご自分の道を「杯」と表現されました。杯は、差し出されたら受け取らなければならないものの象徴で、神が与えたものを意味します。それは、さらに、人間に対する神の怒り、裁きを意味するようになり、「杯を飲む」とは苦しむことを意味しました。弟子たちにはそれが強いられるのですが、その労苦によって、神の恵みを勝ち取るのではありません。
信仰においても、何かを達成し、良いものにありつきたいという欲が潜むのですが、肉の思いに従う者は神に敵対しています(ロマ8:7)。「君候に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩118:9)との言葉は、内なる名誉欲、権力欲との決別を呼びかけているのです。他の弟子たちが腹を立てたのも、ヤコブ、ヨセフの兄弟と同様に、自分が評価されたいと願うからで、イエスさまは、自らの欲に振り回されないで、人に仕えよと諭されます。イエスさまご自身がそうであったからです。
「身代金」とは、奴隷や捕虜を解放するための命を買い取るための金で、イエスさまがご自分のことをそう呼んだのは、十字架の意味を語るためでした。神の前に罪深さを思うわたしたちは、自分で償うことで赦しを得たいと思うのですが、神はそれを赦されず、代りに、イエスさまの命をもって身代金を払ってくださったのが、十字架でした。
そのイエスさまに従うとは、一番上でイエスさまの隣に座ることではなく、最も低い所にいるイエスさまと共に仕えることです。人間の持つ罪を見据え、自らを含めた人間というものへの深い憐れみと救いを求めて、仕えることが、僕となるということです。
十字架の勝利
創25:29~34、ロマ8:1~11、マタ20:20~28、詩118:1~9。
……このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。二人が「できます」というと、……
マタイによる福音書 20:22b
イエスさまはご自分の道を「杯」と表現されました。杯は、差し出されたら受け取らなければならないものの象徴で、神が与えたものを意味します。それは、さらに、人間に対する神の怒り、裁きを意味するようになり、「杯を飲む」とは苦しむことを意味しました。弟子たちにはそれが強いられるのですが、その労苦によって、神の恵みを勝ち取るのではありません。
信仰においても、何かを達成し、良いものにありつきたいという欲が潜むのですが、肉の思いに従う者は神に敵対しています(ロマ8:7)。「君候に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩118:9)との言葉は、内なる名誉欲、権力欲との決別を呼びかけているのです。他の弟子たちが腹を立てたのも、ヤコブ、ヨセフの兄弟と同様に、自分が評価されたいと願うからで、イエスさまは、自らの欲に振り回されないで、人に仕えよと諭されます。イエスさまご自身がそうであったからです。
「身代金」とは、奴隷や捕虜を解放するための命を買い取るための金で、イエスさまがご自分のことをそう呼んだのは、十字架の意味を語るためでした。神の前に罪深さを思うわたしたちは、自分で償うことで赦しを得たいと思うのですが、神はそれを赦されず、代りに、イエスさまの命をもって身代金を払ってくださったのが、十字架でした。
そのイエスさまに従うとは、一番上でイエスさまの隣に座ることではなく、最も低い所にいるイエスさまと共に仕えることです。人間の持つ罪を見据え、自らを含めた人間というものへの深い憐れみと救いを求めて、仕えることが、僕となるということです。