02│2022年01月09日 降誕節3 イエスの洗礼

週 句 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
    聖書 マルコ2章17節
説 教「時は満ちた!」  高橋牧師
    聖書  マルコ1章14~20節

「“とらえられて”始まる」
 「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエス・キリストの言葉は、新しい時代の到来を宣言しています。イエス様の宣教の本格的なスタートです。しかし、物事の始まりに対して通常イメージされるような華々しさはここには描かれていません。この始まりには、民衆に罪の赦しと悔い改めを説き、水によるバプテスマ(洗礼)を授けていたヨハネが捕らえられたという事件がありました。
 イエス様が弟子たちをお選びになる間、ヨハネはずっと獄中におり、後にちょうど12人の弟子たちが派遣されるあたりのタイミングで、この人は王に命を奪われることになるのです。
 昨年2月に始まったミャンマーにおけるクーデターは、いまだに留まるところを知りません。このかんに、人々の支援にあたっていた幾名ものバプテスト教会の牧師やメンバーたちが、国軍に目をつけられたがために、あるいは戦乱によって、犠牲となった報せを何度も耳にしてきました。心痛み、ご家族や当地の人々の慰めを祈る傍ら、それほど命を賭して神と隣人に仕える覚悟が自分にはあるのだろうか(実は、それは自分の望む生き方ではないのではないか?)ということをいつも問われる思いがいたします。
 イエス様は仲間が捕らえられ刑死していく、そのような状況に対して、心を痛められなかったはずがありません。イエス様は、どのようなお心でガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのでしょう。明るく意気揚々としていたでしょうか…。
そのような悲惨な時にも関わらず、主は、時は満たされているというのです。そこに神様の舞台は整えられていると言うのです。
 私たちの世界には、神の創造の秩序を破壊しようとする悪と罪の力がいまだに強く働いており、その中をもがき生きる私たちです。懸命に生きているつもりでいながら、いつの間にか自分自身の蒔いた種が降りかかってくることさえあります。召命は、そんな世界の日常に生きる弟子たちが、イエス様に弟子として招かれた出来事です。