週 句 神に従う人はなつめやしのように茂(しげ)り レバノンの杉のようにそびえます。
詩編92編13節
詩編92編13節
説 教 「聖書は神の『みことば』です。」 大森章弘
聖書朗読 IIテモテ 3章14~17節
「信徒説教の魅力」
テモテの手紙は、神学の世界では「パウロの名による手紙」(偽名書簡)とされています。理由として、その内容は、パウロの時代に比べて既に教会内部の指導体制が整うと同時に家父長制の影響を強く受けて限定的になっており、また、明らかにパウロ自身によるものと認められる手紙と比べれば男尊女卑的であったり、奴隷に対する理解が異なっていたりもします。そうしたことからパウロの弟子によるものと考えられます。しかしそれでもなお、初代教会においてパウロの教えを引き継ぐ者たちが生き生きと活動していたことを証しする言葉として大切に聞きたいものです。そうである限り私たちにとってこの手紙の言葉もまた、聖書の神の「みことば」として私たちの命を活かすでしょう。
さて本日は信徒説教です。説教者の大森さんにとって、本日の箇所でいちばん強く響いた御言葉は15節とのことでした。ここに信徒説教の魅力があります。なぜなら「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」というこの御言葉は、18歳で初めて聖書を読んだ私(高橋)個人は、説教の中心聖句とし得なかったからです。しかし、母や祖母によって幼児の時から旧約聖書を学んだテモテのように、まさにご家族の信仰があり、また幼い頃の教会学校から今に至るまで教会で御言葉に触れて来られた方にこそ語り得る証があるでしょう。
それと同時に、自分が教会の一肢であることを思えば、私のような者のための御言葉でもあると気づかされます。私たち岡山バプテスト教会は、「幼い日」(70年前の伝道開始)からずっと、梅田先生はじめ多くの方々の宣教によって、互いの祈りや励ましによって、御言葉を聞き、一つとされ、互いに、共に、キリスト・イエスにあって歩む道を教えられてきました。この信仰に立つなら、確かに私たちは、世界全体が「惑わし惑わされる」(13節)ようなこの時代を力強く生き抜いていくことができることでしょう。
高橋周也
聖書朗読 IIテモテ 3章14~17節
「信徒説教の魅力」
テモテの手紙は、神学の世界では「パウロの名による手紙」(偽名書簡)とされています。理由として、その内容は、パウロの時代に比べて既に教会内部の指導体制が整うと同時に家父長制の影響を強く受けて限定的になっており、また、明らかにパウロ自身によるものと認められる手紙と比べれば男尊女卑的であったり、奴隷に対する理解が異なっていたりもします。そうしたことからパウロの弟子によるものと考えられます。しかしそれでもなお、初代教会においてパウロの教えを引き継ぐ者たちが生き生きと活動していたことを証しする言葉として大切に聞きたいものです。そうである限り私たちにとってこの手紙の言葉もまた、聖書の神の「みことば」として私たちの命を活かすでしょう。
さて本日は信徒説教です。説教者の大森さんにとって、本日の箇所でいちばん強く響いた御言葉は15節とのことでした。ここに信徒説教の魅力があります。なぜなら「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」というこの御言葉は、18歳で初めて聖書を読んだ私(高橋)個人は、説教の中心聖句とし得なかったからです。しかし、母や祖母によって幼児の時から旧約聖書を学んだテモテのように、まさにご家族の信仰があり、また幼い頃の教会学校から今に至るまで教会で御言葉に触れて来られた方にこそ語り得る証があるでしょう。
それと同時に、自分が教会の一肢であることを思えば、私のような者のための御言葉でもあると気づかされます。私たち岡山バプテスト教会は、「幼い日」(70年前の伝道開始)からずっと、梅田先生はじめ多くの方々の宣教によって、互いの祈りや励ましによって、御言葉を聞き、一つとされ、互いに、共に、キリスト・イエスにあって歩む道を教えられてきました。この信仰に立つなら、確かに私たちは、世界全体が「惑わし惑わされる」(13節)ようなこの時代を力強く生き抜いていくことができることでしょう。
高橋周也