20│2021年05月09日 復活6 イエスの祈り

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退(しりぞ)けることなく慈(いつく)しみを拒(こば)まれませんでした。
詩編66編20節
説  教  「人間にこだわり抜く神」

イエスの祈り
列王上18:20~39,ヘブ7:11~25,マタイ6:1~15,詩編95:1~11

かつてNew English Bible訳〔英国・1961年〕は、マタイによる福音書6章1節前半をこのように訳していたそうです。

“Not to make a show of your religion before men.”
(人前で自分の宗教を見世物にするな。)

新共同訳「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」の方がはるかに原文に近いけれども、上記は味のある翻訳と感じます。“見てもらうtheath?nai<theaomai(劇場「シアター」の語源)”ために、“偽善者hupokrites(古代ギリシアでは「舞台俳優」という意味でもあった)”がする「善行」は、もはやそれは信仰ではなくドラマや演劇のようなものだと、イエス様は皮肉ったのでしょう。
「人からほめられようと・・・自分の前でラッパを吹き鳴らす」ことについては、おそらく当時のユダヤ教の会堂における習慣が反映されています。聖書学者シュラッターによれば、高額献金者は礼拝において特別にラビ(教職者)に招き寄せられ、執事がラッパを吹いてその献金を神様に報告するということが行われていたらしいのです(=「吹聴」)。ちなみに、「報いを受ける」ことに対しては商業用語が使われているので、今の時代にレシートをもらうのに近い感覚です。その「報い」は受け取れば清算完了ですから、ふつうはもう追加請求権なしです。神様からもっと大きな報いがあるとしても、人間によるもっと安くて小さな報いで終わってしまうのです。取引だとすれば大損です。ユダヤ人らしい表現でおもしろいなあと思います。
今日のイエス様のお言葉は問いかけています。善行、施しや献金、祈りは、本来相手あってのものであるのに、あなたにとってそれらのことが自分のためだけのものになっていないか?と