17│2021年04月18日 復活3 新しい命

週    句

私は良い羊飼いである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書10:11a、27~28a
説  教  「どん底に『しるし』あり」 :高橋周也

新しい命
列王上17:8~24、コロ3:1~11、マタイ12:38~42、詩編116:1~14。

新共同訳聖書では本日の聖書箇所を「人々はしるしを欲しがる」と題しています。律法学者とファリサイ派の人々はイエス様に「しるし<単数形>」を見せるように願いました。つまり彼らは、他の人々になさったような奇跡やいやしのわざなどといった「しるし<複数形>」というよりも、もっと「これぞ確固たる、明瞭な、疑いようのない証拠」を求めたのです。もちろんこの問いかけには、イエス様を試みようという意図もあったでしょうが、その要求はもともと彼らなりの切実な願いだったはずです。
 今日のイエス様のお話しは、旧約聖書に記された出来事を前提に語られています。かつて、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて、断食し荒布をまとい、灰の中に座り、悔い改めました(ヨナ書3章)。また、南の国の女王は当時地の果てと思われていたほど遠いアラビアのシェバから、ソロモンの知恵を求め遠路エルサレムにやって来ました。そして、ソロモンの知恵に感嘆し、神をほめたたえたのです(列王記上10章)。イエス様は、神の言葉に強く憧れた女王や、あるいは命をかけて、神の言葉を聞こう生きようとしたニネベの人々を挙げることによって、律法学者やファリサイ派の人々に対して、より本質的なところ(しるし<単数形>)に気づかせようとなさるのです。
さて、律法学者やファリサイ派の人々のこの求めは、私たちには無縁でしょうか?確かに、信仰において「形あるもの」に過度に依存するのは問題かもしれませんが、そもそも人間は「しるし」を求めるものなのではないでしょうか。イエス様は今日の聖書の箇所で、人間が「しるし」を求める心を否定したわけではありません。人間が「しるし」ではないものを「しるし」としてしまうことについて嘆いておられるのです。