09│2021年02月21日 降誕09 荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
ヨハネの手紙Ⅰ 3:8b
説  教  「福音にあずかるもの」 

コリントの信徒への手紙Ⅰ 9:19~27

荒れ野の誘惑
申命30:15~20、ヤコブ1:12~18、マタイ4:1~11、詩編91:1~16。
バプテスマを受けられたイエスは荒れ野に向かい、最初に悪魔から誘惑を受けられます。悪魔の誘惑と聞くと、何か倫理的、心情的に悪いことを行わせるというイメージがありますが、ここで取り上げられている3つの誘惑は特別悪いことでもなさそうです。それどころか聖書の言葉を持ち出し、「飛び降りても助けてもらえるのだからやってみたらよい」と神の力を確信しているようでもあります(マタイ4:6、詩編91:11~12)。そこから、神が悪魔を用いて誘惑させているのではないかと考える人がいてもおかしくありませんが、それは間違っています(ヤコブ1:13)。
「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」(ヤコブ1:14)。誘惑は神から出るのではなく、自分自身の欲望の合わせ鏡にすぎません。自分の心の底にある欲望と戦うのは本当に難しい。「己に克つ」「自分で自分を律する」ことの困難さは誰もが経験していることでしょう。
イエスはこの困難さを共に引き受けられるのです。「神の子なら……」と悪魔の言葉にあるように、神の子であるイエスの力をもってすれば何でもできるはずでしょう。しかし、イエスはその道を選ばれません。誘惑される一人の人間として困難に立ち向かわれます。そして、真に誘惑に打ち勝つことができるのは、ただ神の力に頼ることしかないことを示されます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10)。これは、「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命」であるとのモーセの遺言を思い起こさせます(申命30:20)。「神の力を身につけて」というよりむしろ、「力ある神と共に」誘惑と向き合うことが大切です。真摯に従う者を神が見捨てられることはありません。その守りの中でしっかりと神を見上げて歩むのです。
「礼拝と音楽」より