週 句
あなたの上には主が輝き出でて、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書60:2b
あなたの上には主が輝き出でて、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書60:2b
説 教 「神の賜物」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:1~5、16
教えるキリスト
イザヤ30:18~21、Ⅰテモテ4:4~16、マタイ5:1~20、詩編119:9~16。
イエスは神の愛の実現としてこの地上に来られました。だからイエスの誕生は決して、旧世界の破壊ではありません。神がこの世界を創られた初めから人々を愛し導き続けてこられた延長にイエスの誕生はあります。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。しかし人は、神のこの思いに応えることなく、神を神ともしない世界を作ってきました。そのような人々を見捨てることなく神は「恵みを与えようとして/あなたたちを待」(イザヤ30:18)っておられました。そして、もう一度神に立ち帰らせるために、「憐れみを与えようとして/立ち上がられ」(イザヤ30:18)ました。直接的で強制的な神の介入、それがイエスの降誕です。
だから、その初めからあった神との関係、神との約束、神の律法は廃止されません。廃止されるどころか、「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれ」(マタイ5:19)ます。イエスと共に完成されるのです。
とはいえ、神の思いを守り、また教えることは簡単ではありません。だから、イエスに従う者は、その言葉を聞き、イエスと共に歩む道を保つために、「信心のために自分を鍛え」(Ⅰテモテ4:7)続けなければなりません。体の鍛錬と同様、それは毎日の積み重ねしかありません。どんなときも神の言葉に聞き続けていくこと、「あなたの御言葉通りに道を保つこと」(詩編119:9)によって、私たちは神との関係を正しく保ち続けることができます。
「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け』と」(イザヤ30:31)イエスの福音とは、その道を歩みやすいようにと、背後から押し出してくださる言葉です。私たちの鍛錬のために、先立つイエスが振り返りながら、私たちにかけ続けてくださる言葉なのです。
「礼拝と音楽」より
コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:1~5、16
教えるキリスト
イザヤ30:18~21、Ⅰテモテ4:4~16、マタイ5:1~20、詩編119:9~16。
イエスは神の愛の実現としてこの地上に来られました。だからイエスの誕生は決して、旧世界の破壊ではありません。神がこの世界を創られた初めから人々を愛し導き続けてこられた延長にイエスの誕生はあります。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。しかし人は、神のこの思いに応えることなく、神を神ともしない世界を作ってきました。そのような人々を見捨てることなく神は「恵みを与えようとして/あなたたちを待」(イザヤ30:18)っておられました。そして、もう一度神に立ち帰らせるために、「憐れみを与えようとして/立ち上がられ」(イザヤ30:18)ました。直接的で強制的な神の介入、それがイエスの降誕です。
だから、その初めからあった神との関係、神との約束、神の律法は廃止されません。廃止されるどころか、「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれ」(マタイ5:19)ます。イエスと共に完成されるのです。
とはいえ、神の思いを守り、また教えることは簡単ではありません。だから、イエスに従う者は、その言葉を聞き、イエスと共に歩む道を保つために、「信心のために自分を鍛え」(Ⅰテモテ4:7)続けなければなりません。体の鍛錬と同様、それは毎日の積み重ねしかありません。どんなときも神の言葉に聞き続けていくこと、「あなたの御言葉通りに道を保つこと」(詩編119:9)によって、私たちは神との関係を正しく保ち続けることができます。
「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け』と」(イザヤ30:31)イエスの福音とは、その道を歩みやすいようにと、背後から押し出してくださる言葉です。私たちの鍛錬のために、先立つイエスが振り返りながら、私たちにかけ続けてくださる言葉なのです。
「礼拝と音楽」より