週 句
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙4;4、5b
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙4;4、5b
説 教 「告知」
イザヤ7:10~14、黙示11:19~12:6、マタイ1:18~23、詩編46:2~12。
詩人は「神はわたしたちの避けどころ」(詩編46:2)と歌い、人々は救いの到来を今か今かと待ち望んでいました。しかし、その救いを待っているはずのイスラエルが、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(イザヤ7:2)とうそぶくのです。ただ神に救いを求めれば良いにもかかわらず、素直に弱みを見せようとはしません。
そこで神は直接的に、強制的にこの世へと介入されます。暗闇のこの世に、「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」(詩編46:6)のです。そして、「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられ」(イザヤ7:14)ます。そのしるしとは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産」(イザヤ7:14)むこと。イエスの誕生こそ神の介入のしるしです。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたこと」(マタイ1:22)。先駆者によって示されていた救いの実現です。それはまた、「わたしたちの避けどころ」(詩編46:2)である神が、「インマヌエル=主はわたしたちと共にいます=神は我々と共におられる」(イザヤ7:14、詩編46:8、マタイ1:23)しるしです。
しかし、救いは何の苦しみもなく与えられるだけのものではありません。ある意味では痛みを伴うものであり、不安を伴うものでもあります。特に、自分の常識に囚われている人にとっては、根幹を揺るがされる大変な事態でしょう。(黙示12:2)だから人々は救い主を受け入れず、迫害してしまうのかもしれません。自分の期待通りの救いが来なかったとうそぶいて、自分が変わることを恐れているのです。
そのことがわかっていながら、神はその独り子を世に送り出そうとしておられます。約束の時は近い。そう時が告げられています。今こそ、「インマヌエル」の主を呼び求めましょう。
「礼拝と音楽」より
イザヤ7:10~14、黙示11:19~12:6、マタイ1:18~23、詩編46:2~12。
詩人は「神はわたしたちの避けどころ」(詩編46:2)と歌い、人々は救いの到来を今か今かと待ち望んでいました。しかし、その救いを待っているはずのイスラエルが、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(イザヤ7:2)とうそぶくのです。ただ神に救いを求めれば良いにもかかわらず、素直に弱みを見せようとはしません。
そこで神は直接的に、強制的にこの世へと介入されます。暗闇のこの世に、「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」(詩編46:6)のです。そして、「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられ」(イザヤ7:14)ます。そのしるしとは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産」(イザヤ7:14)むこと。イエスの誕生こそ神の介入のしるしです。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたこと」(マタイ1:22)。先駆者によって示されていた救いの実現です。それはまた、「わたしたちの避けどころ」(詩編46:2)である神が、「インマヌエル=主はわたしたちと共にいます=神は我々と共におられる」(イザヤ7:14、詩編46:8、マタイ1:23)しるしです。
しかし、救いは何の苦しみもなく与えられるだけのものではありません。ある意味では痛みを伴うものであり、不安を伴うものでもあります。特に、自分の常識に囚われている人にとっては、根幹を揺るがされる大変な事態でしょう。(黙示12:2)だから人々は救い主を受け入れず、迫害してしまうのかもしれません。自分の期待通りの救いが来なかったとうそぶいて、自分が変わることを恐れているのです。
そのことがわかっていながら、神はその独り子を世に送り出そうとしておられます。約束の時は近い。そう時が告げられています。今こそ、「インマヌエル」の主を呼び求めましょう。
「礼拝と音楽」より