週 句
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書9:9
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書9:9
説 教 「主の来臨の希望」
イザヤ2:1~5、ローマ13:8~14、マタイ24:36~44、詩編24:1~10。
預言者イザヤはユダとエルサレムについて幻を見ます。それは、いつか必ず来る「終わりの日」のことでした。(イザヤ2:2)
その日には「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」との幻でした。それは救いの時であり、「栄光に輝く王が来られる」(詩編24:7)時、主の栄光が満ちる時です。その時、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学」(イザヤ2:4)びません。本当の平和が訪れる時です。
しかし、「その日、その時は、だれも知」(マタイ24:36)りません。いつやって来るのかわからないその時を、人々はずっと待ち望んでいました。とはいえ、「その日」が来れば自動的に争いがなくなるわけではありません。だから、その日に向かってしっかりと歩まねばなりません。
パウロは、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に付けましょう」(ローマ13:12)と呼びかけています。「闇の行い」にはいろいろありますが、少なくとも争いを含んでいることは間違いありません。「その日」がいつ来ても良いように、争いを減らす努力を怠ってはなりません。また、身に着けるべき「光の武具」とは、闇を打ち破る強大な武器ではなく、闇をも包み込む大きな愛です。「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13:9)そのような生き方こそが「目をさましてい」る(マタイ24:42)生き方であり、「光の中を歩」んでいる(イザヤ2:5)生き方です。
「夜は更け、日は近づいた」(ローマ13:12)。いつ来るかわからない「その日」はすぐ近くに来ています。「その日」を待ち望みつつ、しっかりと神を見上げて、光の中を歩みましょう。
「礼拝と音楽」より
イザヤ2:1~5、ローマ13:8~14、マタイ24:36~44、詩編24:1~10。
預言者イザヤはユダとエルサレムについて幻を見ます。それは、いつか必ず来る「終わりの日」のことでした。(イザヤ2:2)
その日には「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」との幻でした。それは救いの時であり、「栄光に輝く王が来られる」(詩編24:7)時、主の栄光が満ちる時です。その時、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学」(イザヤ2:4)びません。本当の平和が訪れる時です。
しかし、「その日、その時は、だれも知」(マタイ24:36)りません。いつやって来るのかわからないその時を、人々はずっと待ち望んでいました。とはいえ、「その日」が来れば自動的に争いがなくなるわけではありません。だから、その日に向かってしっかりと歩まねばなりません。
パウロは、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に付けましょう」(ローマ13:12)と呼びかけています。「闇の行い」にはいろいろありますが、少なくとも争いを含んでいることは間違いありません。「その日」がいつ来ても良いように、争いを減らす努力を怠ってはなりません。また、身に着けるべき「光の武具」とは、闇を打ち破る強大な武器ではなく、闇をも包み込む大きな愛です。「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13:9)そのような生き方こそが「目をさましてい」る(マタイ24:42)生き方であり、「光の中を歩」んでいる(イザヤ2:5)生き方です。
「夜は更け、日は近づいた」(ローマ13:12)。いつ来るかわからない「その日」はすぐ近くに来ています。「その日」を待ち望みつつ、しっかりと神を見上げて、光の中を歩みましょう。
「礼拝と音楽」より