45│2020年11月01日 降誕前節8 堕落

週    句

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちたい。
ローマの信徒への手紙12:21
説  教  「堕落」

イザヤ44:6~7、ローマ3:21?28、マタイ23:25?36、詩編51:3~11。

バビロン捕囚末期より捕囚からの解放の時代に生きた「第2イザヤ」と呼ばれる預言者は、捕囚の中で絶望の中にある民に対して、嘆きを越えた慰めと希望を語り、民の嘆きの中にも働きかけられる神の業を示します。
「わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら…私と競ってみよ」(44:6-7)と神が語られる言葉は、その後の偶像に対する記述と合わせられ、多様な宗教、信仰との対比の中で読まれ得るものでしょう。しかし、ここで言われる偶像を何と重ねて見るかが問われるように思います。人が(特に一部の人の)幸福追求のために作り上げた様々なものやシステムが、もろくも崩れ去っていく。しかもこれまで一部の人が幸福を享受している背後で弱くされた人々が、その崩壊のプロセスの中でさらに弱くされる現実を覚えます。そのような差別や抑圧を生む構造に、私たちの内なる偶像や社会的罪を見る思いがいたします。
ローマ3章で、パウロは信仰による義を説く中で「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(24節)と主イエスの贖いの業に目を向けさせ神の義において「何の差別もありません」(22節)と語ります。主イエスの贖い、神の救いに出会う時、社会的罪、自らの内なる偶像に気づかされ、そこから打ち砕かれ、新たにされていく経験をするのではないでしょうか。
「初めであり、終わりである」(イザヤ書44:6)との神の言葉は、ヨハネの黙示録において「わたしはアルファであり、オメガである」(1:8、21:6、2:13)との言葉を思い起こさせるものです。救いの創始者であり、完成者である神と、その神がこの世に遣わされた主イエス・キリスト。すべての人を救う救い主の降誕を待ち望む時、その心を確かに神とキリストに向けながら備えの日々を過ごしていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より