38│2020年09月13日 聖霊降臨16 神に属する者

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
詩編103:2
説  教  「神に属する者」

エレ28:1~17、Ⅰヨハ5:10~21、ヨハ8:37~47、詩編65:6~14。
Ⅰヨハネがもう一度取り上げられています。2章では「反キリスト」という何とも厳しい語も登場しながら、「正統」対「異端」という対比の中で「御子の内にとどまりなさい」と勧められました。5章においても「神の子を信じる人」「信じない人」という同じような構図を見ますし、「死に至る罪」を犯す人に対する厳しい姿勢も明らかにされています。
当時の教会の状況を思いつつ、しかし同時に対立構造を煽り異なるものを排除するように読むのではなく、「神の子を信じる人」という自己理解の中でいかに「神のみ心に適うこと」を求めていくかということが問われるように思います。それはイエスが「神に属するものは神の声を聞く」(ヨハネ8:47)と語られたことにつながるものでしょう。
Ⅰヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(5:16)と、祈りのすすめをします。祈りはキリスト者個人として、共同体として、その歩みの根幹をなします。主イエスも祈ることについて多くのことを教えられました。そしてⅠヨハネにおいて、祈りが自己目的達成のため、利己的なものとしてなされるのではなく、他者のためのとりなしの祈りとして教えられるところに意味を見出すものです。
利己的な論理で他者が傷つこうが構わないという風潮がまかり通りかねない現実にあって、利他的に祈りをなしなさいとの教えは、祈りを通して私たちの生きる根幹が整えられていくものです。「何事でも神のみ心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」(5:14)。この確信に基づいて、他者のために祈りが繋がれていくところを神はみ心として受け止めてくださるのではないでしょうか。そしてキリスト者が、教会が「神の子を信じる人」として、この世にあって委ねられた使命を果たしていくことになるのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より