週 句
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書12:32
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書12:32
説 教 「キリストの昇天」
キリストの昇天
列王下2:1~15、黙示5:6~14、ヨハ7:32~39、詩46:2~12。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(ヨハネ7:33)との言葉は、イエスが、イエスをこの世にお遣わしになられた神のもとへ帰られるとの、昇天の出来事を読む者に想起させます。一方でそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスが離散したユダヤ人の所へ行って、ギリシア人に教えるのかと考えます。イエスがどこから来られた方であり、どの領域に属する方なのかを理解している・いないというところからこの受け止めの相違が描き出されます。
ヨハネの黙示録では「あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ」たと、キリストがすべての人を贖われ、天にあって神の玉座の右に座しておられるイメージを語ります。このイメージは、先の福音書の言葉と重なって、キリストの昇天の後、福音が遍くすべての人に向けて告げ知らされ、広がり行く様を表していると受け止められるのではないでしょうか。
十字架の死から復活されたイエスは弟子たちを派遣されるにあたって、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。主の昇天から使徒たちの時代へ。「“霊”がまだ降っていなかったからである」(ヨハネ7:39)という時から聖霊降臨の出来事へ。新しい時の始まりを、今私たちは予感するものです。
「わたしを信じる者は、……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とイエスが大声で語られた約束が実現していく。生きた水が尽きることなく流れ出ていく、そのイメージのように聖霊の力が溢れんばかりに遍く人々に与えられていく。まさに神の御業の中に生かされていることを覚え、主の良き知らせを告げ知らせる業に連なっていくものでありたいと願います。
「礼拝と音楽」より
キリストの昇天
列王下2:1~15、黙示5:6~14、ヨハ7:32~39、詩46:2~12。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(ヨハネ7:33)との言葉は、イエスが、イエスをこの世にお遣わしになられた神のもとへ帰られるとの、昇天の出来事を読む者に想起させます。一方でそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスが離散したユダヤ人の所へ行って、ギリシア人に教えるのかと考えます。イエスがどこから来られた方であり、どの領域に属する方なのかを理解している・いないというところからこの受け止めの相違が描き出されます。
ヨハネの黙示録では「あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ」たと、キリストがすべての人を贖われ、天にあって神の玉座の右に座しておられるイメージを語ります。このイメージは、先の福音書の言葉と重なって、キリストの昇天の後、福音が遍くすべての人に向けて告げ知らされ、広がり行く様を表していると受け止められるのではないでしょうか。
十字架の死から復活されたイエスは弟子たちを派遣されるにあたって、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。主の昇天から使徒たちの時代へ。「“霊”がまだ降っていなかったからである」(ヨハネ7:39)という時から聖霊降臨の出来事へ。新しい時の始まりを、今私たちは予感するものです。
「わたしを信じる者は、……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とイエスが大声で語られた約束が実現していく。生きた水が尽きることなく流れ出ていく、そのイメージのように聖霊の力が溢れんばかりに遍く人々に与えられていく。まさに神の御業の中に生かされていることを覚え、主の良き知らせを告げ知らせる業に連なっていくものでありたいと願います。
「礼拝と音楽」より