週 句
神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、悲しみを拒まれませんでした。
詩篇66:20
神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、悲しみを拒まれませんでした。
詩篇66:20
説 教 「キリストの勝利」
キリストの勝利
出エジ33:7~11、ローマ8:28~39、ヨハ16:25~33、詩8:2~10。
イエスの訣別説教の結びとなる箇所です。昇天日(5月21日)を前にして与えられたテクストは、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)とのイエスの言葉を示します。そして受難と十字架の出来事を予感させると共に、主の昇天が告げられていきます。
地上において人々と共に生き、喜びも悲しみも、痛みもすべてを共に負うてくださった主イエスが天に昇られる。それは直接相まみえながらイエスと共にということが叶わなくなることを意味します。その意味では訣別、これまでとこれからではイエスと人々との関係が決定的に変わることとなります。しかし単なる別れで終わるものではないことがイエスの言葉から明らかにされていくのです。
主の受難に際して「散らされて、自分の家に帰って」しまうと予告された弟子たちの姿は、迫害下厳しい状況にさらされる初代の教会の人々の姿、さらには今日の時代の荒波の中で右往左往する私たちの姿を指し示すものとして受け止められます。その私たちに主イエスは力強く語りかけるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。どれほど多くの人々がこのイエスの言葉に勇気づけられ、励まされてきたことでしょうか。「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまヘり」と告白される主の昇天は、神の子である主イエスが私たちの王として天に凱旋され、今も生きて支配されているということを宣言します。そして新たな宣教の業がキリスト者に、教会に委ねられていくのです。
何者も「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)との信仰に立ち、神の愛の中にいつも生かされているという恵みを希望の礎としながら歩む者とされたい。神から委ねられた多様な働きを担っていきたいと願います。
「礼拝と音楽」より
キリストの勝利
出エジ33:7~11、ローマ8:28~39、ヨハ16:25~33、詩8:2~10。
イエスの訣別説教の結びとなる箇所です。昇天日(5月21日)を前にして与えられたテクストは、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)とのイエスの言葉を示します。そして受難と十字架の出来事を予感させると共に、主の昇天が告げられていきます。
地上において人々と共に生き、喜びも悲しみも、痛みもすべてを共に負うてくださった主イエスが天に昇られる。それは直接相まみえながらイエスと共にということが叶わなくなることを意味します。その意味では訣別、これまでとこれからではイエスと人々との関係が決定的に変わることとなります。しかし単なる別れで終わるものではないことがイエスの言葉から明らかにされていくのです。
主の受難に際して「散らされて、自分の家に帰って」しまうと予告された弟子たちの姿は、迫害下厳しい状況にさらされる初代の教会の人々の姿、さらには今日の時代の荒波の中で右往左往する私たちの姿を指し示すものとして受け止められます。その私たちに主イエスは力強く語りかけるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。どれほど多くの人々がこのイエスの言葉に勇気づけられ、励まされてきたことでしょうか。「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまヘり」と告白される主の昇天は、神の子である主イエスが私たちの王として天に凱旋され、今も生きて支配されているということを宣言します。そして新たな宣教の業がキリスト者に、教会に委ねられていくのです。
何者も「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)との信仰に立ち、神の愛の中にいつも生かされているという恵みを希望の礎としながら歩む者とされたい。神から委ねられた多様な働きを担っていきたいと願います。
「礼拝と音楽」より