45│2019年11月03日 降誕前8 堕   落

週    句

主がお前に求めておられるのは、正義を行い、慈しみを愛し、神と共に歩むことである。
ミカ書 6:8
説  教    「〈あなたは〉どこにいるのか」   :梅田 環

堕   落
創3:1~15、ロマ7:7~13、ヨハ3:13~21、詩51:3~11。

……アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」
創世記 3:8b〜9

 科学技術の発展は、人間に全能感をもたらし、同時に、身体感覚を奪い取りました。その結果、人間は、自分の体さえも、思う通りにはならない現実に直面し、いっそう大きなギャップに苦しむようになったのではないでしょうか。人間が、自己とどのようにつきあえばいいのか、聖書は、21世紀にも、その手掛かりを与えてくれます。
 神が与えた「見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木」の生えていたエデンの地は、地上に造られたものと調和して生きることのできる、人間にとって理想の場所です。その場所で、人間は、より良くなるためになるために、聖書の言葉で言えば、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」ために、「決して食べてはならない」と命じられていた木からその実を取って食べます。それは、人間の挑戦であり、成長であり、自立への試み、ということもできます。より大きく強く賢くなりたい、と。けれども、その当たり前の願望は、時に、人間を大切なものから引き離してしまうことを、この神話は伝えています。
 そもそも、よいものとして造られたはずの人間は、自分という存在に満足することがありません。自己存在についての肯定の欠如は、成長や挑戦の原動力と同時に関係疎外の根本的な原因にもなります。聖書はそれを描きます。人間は「決して食べてはならない」と命じられていた実を取って食べ、神を避けて生きなければならなくなりました。
 そこに神からの呼びかけ。「何処にいるのか」。これは疎外を上書きし、再度、人間との関係を取戻そうとする、神の声です。