21│2019年05月19日 復活5 神の子の自由

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説  教    「いのちを捨てる」 :梅田 環

神の子の自由
申7:6~11、ガラ3:23~4:7、ヨハ15:12~17、詩119:9~16。

友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書 15:13

 これは、イエスの愛の教えに従う者に対し、友のために犠牲の死を実践することを要求する掟というより、むしろ、別の意味をもって、響きます。それは、掟というより、確認の宣言とでもいうことのできるものです。イエスを信じて、イエスに従うものには、イエスを通して、既に、その愛を体験しているのではないか(!?)という気付きを促す言葉なのではないでしょうか。
 イエスは、命を捨てることで、人間を友と呼びます。イエスの愛の行いを通して、人は、友と呼ばれる存在になります。だからこそ、人間は、自立した存在として、自由に自分の行いを決することが求められています。イエスの命じる「互いに愛し合いなさい」という掟には、要求基準はありません。何をどのようになすことが「愛」なのか、友と呼ばれる人間は、自分に示された大いなる愛の内に、責任をもって見つけ出さなければならないのです。
 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』において、「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない」、「キリスト者はすべての者に仕える(ことがのできる)僕であって、誰にでも服する」という2つ命題をこう説明します。「信仰から、神への愛と喜びが流れ出、愛から、報いを考えずに、隣人に仕える自由で自発的で喜ばしい生活が流れ出るのである。なぜなら、わたしたちの隣人が(今)困窮し、わたしたちが余分にもっているものを必要としているように、わたしたちも(かつては)神の前で困窮して、神の恵みを必要としていたのだったからである」(徳善義和訳、教文館、2011)。