51│2018年12月16日 降誕前2 先駆者

週    句

主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びて来られる。
イザヤ書 40:3、10
説  教    「娘シオンよ、喜び躍れ」 :梅田 環

先 駆 者
ゼファ3:14~18、Ⅰテサ5:16~24、ルカ1:5~25、詩85:2~14。

娘シオンよ、喜び躍れ。/……お前の主なる神はお前のただ中におられ、/勇士であって勝利を与えられる。
ゼファニア書 3:14、17

 輝かしい戦勝の喜びに満ちたイメージです。軍事的な敗北を経験したイスラエルの民が、そのような神の先導する戦勝のイメージを豊かに育てたことは、歴史的な経験を反映するものかもしれません。
 しかし、このような言葉が語られる前には、「その日」として、主の怒りが、余すところなく、あらわにされる日が来ることが、語られます。「主の日」とも呼ばれるそのときは、神ご自身が不正をただし、不義を絶つときであり、イスラエルの間に広がる悪を滅ぼし尽くす神の怒りの描かれかたは、凄まじいものがあります。
 その敗北に、意味を構築することが必要であったイスラエルの人々は、バビロニア捕囚を、このようにして、神による教育的な出来事として歴史の中に消化していきました。
 自分のかかわる不正や不義と向き合うことを、神は、否応なく人に求めます。そこからは誰も逃げられないものであり、逃げるべきではないのです。なぜなら、そのような裁きのときを経て、のち、神はその民を回復するからです。それは、人々が偽りから離れ、不正を行うことを止め、再び、神を求めて生きようと願う、という形で、生き方を変えて神に立ち帰るという回復を、神は人々にもたらします。
 そのようなイスラエルに与えられる幻が、主がただ中におられる、という冒頭のイメージです。ですから、そこにおける「勇士」のもたらす勝利は、単純に戦争に勝利するというようなことではありません。敗北を通してしか勝利しない、喪失を経験するからこそ回復をもたらす、そのような主が、わたしたちのただ中に来るときを待望しよう。