31│2018年07月29日 聖霊降臨11 主に従う道

週    句

主なる神は弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。
イザヤ書 50:4
説  教    言葉を与える主    :井東 元

主に従う道
申10:12~11:1、ヘブ12:3~13、マル9:42~50、詩94:8~15。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじては行けない。/主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。/主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、むち打たれるから。」
ヘブライ人への手紙 12:5〜6

 分断と排除の論理が力を振るう世において「じゃなかシャバ」(そうではない社会)を生きたい者たちはどう生きるのであろうか。なすべき務めとして神から与えられた掟は、「心の包皮を切り捨て、寄留者を愛しなさい」(申10:16,19)である。
 寄留者とは、わたしたちと常識・価値観・考え方が違う人たちであり、ともすれば、わたしたちの暮らしを脅かす存在でもある。ヘブライ人への手紙を聞いていた人々は、自分たちを抑圧する世界に異質さを感じ、自分を苦しめるものを排除したいという思いに駆られていたのではないだろうか。聖書の登場人物は、しばしば「わたしの信仰や考え方は正しい、これこそ神の御旨に適うことである」と信じ、多くの争いをし、他民族や自分たちとは相容れない者を排除しようとした。
 しかし、神は、他民族を滅ぼし尽くそうとするイスラエルの人々のなかに、異邦人を残された。異質な者と出会わせ続け、さらに、彼ら自身が「寄留者」として生きることを求めた。たとえ、少数者であっても、力が弱くても、いのちあるものはすべて神の御手の内にあること、イエス・キリストの救いが約束されていることを示されている。
 寄留者として生きることも、寄留者を受け入れることも、忍耐が必要であり、時に、苦しみ、無力さを感じるかもしれない。しかし、イエス・キリストご自身も同じように苦しまれたことを思い起こすとき、イエス・キリストが共にいて、共に苦しみつつ、わたしたちの人生の伴走者となってくださることを知るだろう。