21│2018年05月20日 聖霊降臨1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教    「わたしたちの言葉で聞く」:梅田 環

聖霊の賜物
ヨシュ1:1~9、使徒2:1~11、マコ4:26~34、詩122:1~9。

……アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。
使徒言行録 2:11

 使徒たちに聖霊が降ったのは五旬祭の日であった。五旬祭は、石板に記された律法が、モーセを通して、神の民に与えられたことを記念する祝日でもある。この日、エルサレムには、様々な国から、ユダヤ人が集まっており、本来なら、弟子たちもこの日を祝っていたことだろう。しかし、イエスの十字架、復活、昇天を経験した彼らは、外出もできず、共犯関係にある友と共に一つところに集まり、祈っていた。
 そこに、聖霊が降り、炎のような舌が一人一人に与えられた。言葉を発する行為は口の役割であるように思うが、聖書においては、舌が言葉を語るという理解である。しかし、舌は罪を犯しやすい器官として注意を払うよう諭されてもいる。まさに、使徒たちは、この舌で、イエスを裏切る罪を犯した(!)。イエスを信じ、愛していると言った同じ舌で呪いの言葉を発したのだ。使徒たちは、その罪の重さゆえに、口を開くことを恐れていたのではないだろうか。また、このエルサレムにおいて、自分はイエスとは何の関わりもないと、関係を切り捨てたのだから、今さら、イエスの復活や福音を宣べ伝えたところで、信じる者などいないように思われたであろう。
 舌という字は、口から外に出ている様を表しているという。家から外に出ることのできない使徒たちは、舌がないも同然の状態であった。その彼らに、舌が与えられ、様々な言葉で話すという奇跡が起きた。しかし、真の奇跡は、他言語を話せるようになったことではなく、彼らの言葉が「神の偉大な業」を証しする言葉として、聞く人の心に染み込んだということではないだろうか。