36│2017年09月03日 聖霊節14 忍耐

週    句

彼は、傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書 42:3
説  教  「〈見えないもの〉を望む」  :梅田 環

ハバ3:17~19、ロマ8:18~25、マタ13:24~43、詩90:1~12。

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙 8:25

 当時、殉教をも強いる厳しい状況は、信仰者を、肉体を持つがゆえの苦悩へと追いやりました。毒麦が放置されるかのような(マタ13:30)空しさがあり、人生の労苦と災いは避けがたかったのです。神の似姿を失った人間は、キリストによって神の子とされ、聖霊を「初穂」として与えられているのですが(ロマ8:23)、この世にあっては「滅び」を思わざるを得ない現状の中で「うめく」のです(ロマ8:21)。このうめきは、信仰を捨てずにとどまるがゆえの嘆き、祈り、呟(つぶや)きなのでありましょう。
 そこから贖(あがな)い出されるのは、人間のみならず、自然界も同様である、とパウロは言います。「共に産みの苦しみを味わっている一語は、新しいメシアの時代が始まるという黙示的なイメージを語った言葉といわれます。すべてはキリストの終末的支配に向かって導かれていることを語っているのであり、その見えざる希望によってわたしたちは救われているのです。
 「忍耐」(ロマ8:25)という語には、「身に引き受ける」と言う意味もあります。わたしたちの忍耐は「贖われることを待ち望みつつ、キリストのゆえに引き受けたものではないか」と呼びかけているのです。忍耐は終わりの時に裁く神様を見上げる信仰を養います。
 わたしたちは「葡萄の木は実をつけない」(ハバ3:17)現実(「フクシマ」を見よ!)にあっても、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言い切ることによって、信仰者としての足をたしかなものとされるのです。