週 句
光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
エフェソの信徒への手紙 5:8〜9
光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
エフェソの信徒への手紙 5:8〜9
説 教 「和解の言葉をわたしたちに」:梅田 環
憐れみの福音
ホセ6:1~6、Ⅱコリ5:14~6:2、マタ9:9~13、詩107:1~9。
神はキリストによって、世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、〈和解の言葉をわたしたちに〉ゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:19
この定型的な表現は、キリストの出来事の普遍的な意味を伝えるために、教会が語っていたものです。「和解」は福音を表すキーワードですが、原語は「変える」という語から転じ、「〈敵意・怒り・不和〉を〈友好・愛情・平和〉と交換する」という意味で使われています。関係の変化を現す言葉です。神は、キリストがわたしたちの死を引き受け、わたしたちにはキリストの義と命をくださるという交換により、神と人との関係を本来のものにしてくださいました。
和解の言葉を使徒(「わたしたち」)が託されたのは、和解を得させられた者として、キリストの愛に駆り立てられ突き動かされて伝えるよう、神が召したからです。「神と和解させていただきなさい」(Ⅱコリ5:20)とは、神から差し出される和解の恵みを受け入れるように、との勧めでした。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」のです(ホセ6:1)。
和解させていただいた者を「新しく創造された者」(Ⅱコリ5:17)と呼ぶのは、「肉」というこの世的な、人間的な判断を重んじるのではない、新しい生き方へと押し出されていくことを示しています。自らを「神の協力者」と呼びますが、原文には「神」の語はありません。神人協力説を説いているのではありません。「共に働く者」という言葉で、パウロは同労者として読者に呼びかけているのです。
神の恵みを無駄にするとは、内実を奪い、無にすることで、そうならないよう勧めます。和解を得た今は、正に「恵みの時」(Ⅱコリ6:2)。
憐れみの福音
ホセ6:1~6、Ⅱコリ5:14~6:2、マタ9:9~13、詩107:1~9。
神はキリストによって、世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、〈和解の言葉をわたしたちに〉ゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:19
この定型的な表現は、キリストの出来事の普遍的な意味を伝えるために、教会が語っていたものです。「和解」は福音を表すキーワードですが、原語は「変える」という語から転じ、「〈敵意・怒り・不和〉を〈友好・愛情・平和〉と交換する」という意味で使われています。関係の変化を現す言葉です。神は、キリストがわたしたちの死を引き受け、わたしたちにはキリストの義と命をくださるという交換により、神と人との関係を本来のものにしてくださいました。
和解の言葉を使徒(「わたしたち」)が託されたのは、和解を得させられた者として、キリストの愛に駆り立てられ突き動かされて伝えるよう、神が召したからです。「神と和解させていただきなさい」(Ⅱコリ5:20)とは、神から差し出される和解の恵みを受け入れるように、との勧めでした。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」のです(ホセ6:1)。
和解させていただいた者を「新しく創造された者」(Ⅱコリ5:17)と呼ぶのは、「肉」というこの世的な、人間的な判断を重んじるのではない、新しい生き方へと押し出されていくことを示しています。自らを「神の協力者」と呼びますが、原文には「神」の語はありません。神人協力説を説いているのではありません。「共に働く者」という言葉で、パウロは同労者として読者に呼びかけているのです。
神の恵みを無駄にするとは、内実を奪い、無にすることで、そうならないよう勧めます。和解を得た今は、正に「恵みの時」(Ⅱコリ6:2)。