28│2017年07月09日 聖霊節6 主にある共同体

週    句

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙 6:2
説  教  「……自分のものだというものはなく……」 :梅田 環

主にある共同体
イザ49:14~21、使4:32~37、マタ6:22~34、詩133:1~3。

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだというものはなく、すべてを共有していた。
使徒言行録 4:32

 十字架のキリストを信じる信仰は、信じる者たちの心を隣人へと向かわせます。その結果、初代教会の群れの中には「貧しい人がいなかった」のです。それは、一時のことだったかもしれませんが、使徒言行録が敢えてそう記すのは、そこに、終末時の祝福を重ね合わせて想い見ているからです。終末時には、貧しいままに捨て置かれる人はなく、等しく神に満たされる。その様を幻に見ながら、教会がその片鱗を表すようにと、歩んだのです。すべてが神のものとなることを思い、明日のことまで思い悩まないで済むように、群れを形成したのです。
 この箇所(使徒4:32~37)は、わたしたちに隣人との関わり、また、教会と社会との関わりを考えさせますが、隣人の事情や相手の満足を考えるだけでは、わたしたちは行き詰まってしまいます。ですから、人に為す行為も、分配される金も、神に献げるものであることを明確にする必要がありました。「使徒たちの足もとに置いた」のは、キリストの足もとに置くためでした。
 わたしたちの行いは、神に献げられる時、それはただの慈善事業に終わってしまわないのです。限りある時間と富において、この世の問題を担うのですから、理想通りには行きませんが、この地の祝福が完成する神の国と神の義を求めつつなされる時に、必要なものは、加えて与えられることでしょう(マタ6:33)。
 わたしたちも、兄弟が共に座っている恵みを喜び(詩133:1)、共に重荷を負う群れを形成し、また、「主のご用のためにお用いください」と祈りつつ、主への献げ物をしたいと思います。