週 句
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説 教 「わたしは道であり、真理であり、命である」:梅田 環
父への道
サム下1:17~27、Ⅰヨハ2:1~11、ヨハ14:1~11、詩98:1~9。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書 14:1〜2
イエスさまを逮捕しようと謀る者が迫り、弟子の裏切りが予告され、危機が迫り、不安が高まる中、「心を騒がせるな」と命じられます。「住む所」とは「留まる」と言う動詞に由来し、神の許(もと)、神に赦されてある所という意味です。そこに弟子たちがいられるように、場所を用意しに行くのが十字架なのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……イエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハ2:1)とある通り、イエスさまが執り成しののち、「戻って来て」、すなわち、復活されて、わたしたちを天に迎え入れてくださるのです。
トマスは不安から、イエスさまのいかれる道が分からないと言い、フィリポは父なる神を示して欲しいと願うのですが、イエスさまは、イエスを知ることで、父なる神を知るのであり、神に至る道を知るのだと言います。「わたしは道であり、真理であり、命である」とは、父へと至る「真理と命」の道(経路)は一つしかなく、それがイエスさまご自身なのだ、と言われたものでした。
イエスさまの働きは神の働きと結びつけられ、神を信じることとイエスさまを信じることとは同じことだと言われます。信じられないなら「業そのものによって信じなさい」と言われました。イエスさまは、水を葡萄酒に変え、病人を癒し、五千人を養い、湖上を歩み、ラザロを甦らせ、など、創造者たる神の力を現す奇跡をなして来ました。イエスさまを通して「わたしたちの神の救いの御業を見た」(詩98:3)のであって、それ以外ではないのです。父なる神が内におられるがゆえに、「心を騒がせるな」とのみ言葉が重く響きます。
父への道
サム下1:17~27、Ⅰヨハ2:1~11、ヨハ14:1~11、詩98:1~9。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書 14:1〜2
イエスさまを逮捕しようと謀る者が迫り、弟子の裏切りが予告され、危機が迫り、不安が高まる中、「心を騒がせるな」と命じられます。「住む所」とは「留まる」と言う動詞に由来し、神の許(もと)、神に赦されてある所という意味です。そこに弟子たちがいられるように、場所を用意しに行くのが十字架なのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……イエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハ2:1)とある通り、イエスさまが執り成しののち、「戻って来て」、すなわち、復活されて、わたしたちを天に迎え入れてくださるのです。
トマスは不安から、イエスさまのいかれる道が分からないと言い、フィリポは父なる神を示して欲しいと願うのですが、イエスさまは、イエスを知ることで、父なる神を知るのであり、神に至る道を知るのだと言います。「わたしは道であり、真理であり、命である」とは、父へと至る「真理と命」の道(経路)は一つしかなく、それがイエスさまご自身なのだ、と言われたものでした。
イエスさまの働きは神の働きと結びつけられ、神を信じることとイエスさまを信じることとは同じことだと言われます。信じられないなら「業そのものによって信じなさい」と言われました。イエスさまは、水を葡萄酒に変え、病人を癒し、五千人を養い、湖上を歩み、ラザロを甦らせ、など、創造者たる神の力を現す奇跡をなして来ました。イエスさまを通して「わたしたちの神の救いの御業を見た」(詩98:3)のであって、それ以外ではないのです。父なる神が内におられるがゆえに、「心を騒がせるな」とのみ言葉が重く響きます。