18│2017年04月30日 復活節3 新しい命

週    句

わたしは良い羊飼い。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書 10:11、27、28
説  教    「ヨナにまさるもの」 : 梅田 環

新しい命
列上17:17~24、コロ3:1~11、マタ12:38~42、詩116:1~14。

……ここに、ヨナにまさるものがある。
……ここに、ソロモンにまさるものがある。
マタイによる福音書 12:41、42

 律法学者らは、イエスさまに神の子である客観的なしるしを求めました。わたしたちも、それを求めたい気もしますが、その発想には、吟味し判定するのは自分だという思いがあります。彼らも、自分に主権をおくゆえに、「よこしまで神に背いた時代の者」(マタ12:39)と呼ばれたのでした。イエスさまはその求めを拒み、ヨナを魚に飲み込ませ、吐き出させたのは神であったのと同様に、イエスさまも神により、十字架に掛けられ、復活させられる、それがしるしだと言います。
 ヨナの預言を神の言葉として聞いたニネベの人々の姿勢は、エリヤに対して「あなた口にある主の言葉は真実です」(列上17:24)と言った女性に通じるものでした。南の国の女王は、神がソロモンに知恵を与えたとの名声を信じられず、試しに来ましたが、彼に答えられないことはなく、神を讃美して帰りました。ニネベの人々や南の女王ら、神の言葉を真摯に聞く人の姿を通して、そうではない人の本質があらわになるのです。旧約聖書の言葉を聞いて来た者の罪を異邦人が明らかにするという皮肉なことが起こるのです。
 ヨナとソロモンがおぼろげに神を表していたのに対して、ヨナ、ソロモンにまさると言うイエスさまは、神のみ心そのものでした。徹底して神に従い、み心を示し、十字架と復活によって神の存在を表すのです。
 ヨナが預言によって人々を悔い改めに導いた以上に、イエスさまにおいて、神が示されているのですから、そのイエスさまに立ち帰り、従うことが求められているのです。