10|2017年03月05日 復活前6 荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現われたのです。
ヨハネの手紙一 3:8b
説  教    「神の子なら……」    :梅田 環

荒れ野の誘惑
申30:15~20、ヤコ1:12~18、マタ4:1~11、詩91:1~16。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
マタイによる福音書 4:3

 イエスさまは悪魔の問いを受けられました。それはわたしたちが受けている誘惑でもあります。日用の糧を祈りつつも、必要が満たされるか不安で、パンを自分で用意すべきという悪魔の誘惑に心を揺さぶられます。イエスさまは、その不安の極まるところで、神に求めることを教えているのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、神に求め、委ね、与えられると信じて生きるという信仰の告白であり、それを生きるという決断なのです。
 悪魔は「神は羽を持ってあなたを覆い……足が石に当らないように守る」のだから……と聖句(神の言葉)をもって誘惑します。しかし、神の全能は人が自由に使えるのではなく、神の自由において用いられるものです。わたしたちは神を思いどおりに動かせないことに忍耐しなくてはならないのです。自分にとって都合のいい信仰に埋没しないことがわたしたちに課された闘いです。
 より大きな力で支えられたいとの欲に、悪魔はつけ込みます。「悪魔を拝む」とは極端にも思われますが、〈お金、権力を拝むなら〉〈礼拝の時間を譲り渡すなら〉などに置き換えると分かります。悪魔はわたしたちの内面の罪を引き出し、神から離れていることを気づかせます。
 「神の子なら……」との言葉は、イエスさまの十字架にも向けられました。「神の子なら自分を救ってみろ」(マタ27:40)と言われても、イエスさまは最後まで、父なる神に従い、まことの人として、人間の限界の内に留まられました。悪魔的な者の下にある人間を、その支配から解放するために、悪魔と戦い、勝たれるのです。